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「本能寺の変 431年目の真実」 [歴史]

 明智光秀の子孫である明智憲三郎氏の「本能寺の変 431年目の真実」。
ようやく読破することができた。
前に買ってはいたのだが、読まないままになっていた。
電子書籍化されていたのを見つけたので、ようやく読み始めた。
読み始めたら一気に読んでしまった。

-ここから先はネタバレなので、自分で読みたい人は注意して下さい。-

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 動機は信長の新政権構想とその先にある大陸進出に対する一族の将来への不安。
引き金になったのは長宗我部征伐。

 本能寺の変自体は、信長がプロデュースした家康謀殺計画だった。
信長は家康とその重臣を本能寺に招き、光秀に襲わせる。
それを受けて細川忠興と筒井順慶が指揮官を失った徳川領に侵攻する。
武田家の滅亡で織徳同盟の意義はなくなったのだ。

 だが光秀はこの家康謀殺計画を信長謀殺計画にすり替えた。
信長自身が謀殺計画の段取りをしてくれたのだ。
光秀にとっては信長を討つ千載一遇の好機である。
光秀は家康・細川藤孝と共謀し、計画を実行した。

 信長は家康を油断させるために敢えて無防備で本能寺にいる。
光秀は当初の計画よりも数時間早く本能寺を襲撃すればいい。
家康は信忠を殺してから急遽帰国し、甲斐・信濃の織田領を制圧し、光秀と合流する。

 この作戦にも大きな計算違いが生じた。
一つは家康の甲斐・信濃簒奪に時間がかかり、光秀との合流が遅れたこと。
もう一つは明智の下風に立つことを嫌った藤孝が秀吉に計画を漏らしたことだ。
そのため、秀吉は光秀の予想より遥かに早く帰京した。

 結局光秀は滅び、秀吉・家康・藤孝の共謀で真実は隠蔽された。
家康が討つはずだった信忠が京都にいて、光秀に討たれたことも幸いした。
家康が信忠を殺していたら、隠蔽は不可能だっただろう

 かなり大雑把に書いたので、疑問点も多々あると思う。
実際に読んでもらえれば、納得してもらえると思う。

 自分としての疑問点は一つ。
計画を知った秀吉はどこまで考えたのだろうか。
秀吉が信長の後継者になれたのは、信長・信忠が死んだからだけではない。
三法師が生き延びたことが必要不可欠のはずだ。
筋目を主張して三法師を立て、信雄を利用して信孝を抹殺できた。
この計画だけで、そこまで見通すことは不可能ではないか。
とりあえず織田家での優位な立場を確保するだけというのなら問題はないのだが。
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