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大河ドラマ館 [歴史]

 仕事が一段落し、今日は休みだった。
前々から行きたかった大河ドラマ館に行ってきた。

 まずはその前に昼食。
久しぶりの伊豆家の天丼。
上天丼スペシャルを注文。
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やっぱり美味しいのだ。

 そしていよいよ到着。
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いろいろな展示があって楽しめた。
ただ、期間限定ということもあってか、規模はかなり小さい。
これを機に本格的な資料館をつくったりしないのかな。
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 少し離れたところにある蛭ヶ島公園。
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頼朝が配流されていたところが。
高一の時に遠足で来たことがある。
あの頃はカメラがなかったので、写真は残っていない。
整備されたのかな?

 そして韮山城。
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こちらは戦国大名の方の北条氏の城。
始祖・北条早雲が晩年を過ごした城でもある。
大河ドラマで戦国の北条氏を扱うことがあれば、脚光を浴びるだろう。
主役は早雲か氏康ということになるだろう。
その時は興国寺城がある沼津ともタイアップするかな。

 最後の締めはJIBのカレー。
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シーフードカレーだが、シーフードはトッピングだった。
煮込んではいないので、味自体はいつものカレー。
これはこれで美味しいのだが。

 今回は暑い時期なのでハスラーで行った。
もう少し涼しくなったらPCXで行きたい。
今回行かなかったところと、修善寺にも足を伸ばしたい。
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織田信長の誕生日 [歴史]

 今日5月11日は織田信長の誕生日だと言われています。
信長の誕生日には12日という説もあります。
ルイス・フロイスの記録には、誕生日の19日後に焼死とあります。
そうすると、11日か12日ということに。
でも自分は11日推し。

 理由は、信長が安土城に入った日だから。
安土城は神格化した自分の神殿ともいうべき城。
ならば入城した日には意味があるはず。
で、誕生日が11日か12日というなら、
というわけで、11日推しです。
ちなみに、5月28日と記載された史料もあります。
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「天正10年の史料だけが証す本能寺の変の真実」 [歴史]

 最近読んで、ようやく納得できる説に巡り会えたと感じた本。
本能寺の変に関する本はいろいろ出ている。
だがどの本も「信忠問題」を納得させてくれなかった。

 信長の長男・信忠は本能寺の近くにある妙覚寺にいた。
信長救出が無理と悟った信忠は、二条御所で明智軍を迎え撃った。
だが多勢に無勢で討ち死にした。

 このことは、信忠は光秀からノーマークだったことを示している。
織田家の天下を奪うなら、信忠は当然殺すべき人物だ。
それがノーマークということは、天下盗りが狙いとは考えられない。
そうなると、ノイローゼによる発作的な犯行ということになってしまう。

 「本能寺の変 431年目の真実」では信忠問題に触れられていた。
信忠が家康を本能寺に案内し、光秀に討たせる計画だったという。
だが家康と光秀が共謀し、計画より前に光秀が信長を襲った。
だから信忠が京都にいることは光秀にとっては想定外だった。

 しかし、それならなぜ信忠は京都にいたのか。
同行の予定を変更したのなら、当然家康には伝えるべきだ。
事前に家康に連絡していたら、光秀の耳にも入っているはず。
結局信忠問題は解決していなかった。

 今回読んだ本の趣旨は「織田家臣団による信忠を担いだクーデター」。
全てを信忠に譲り、信長は隠居するという交渉が第一弾。
それがダメなら、信長を捕らえて監禁。

 だがここで想定外の事件が起こった。
不利を悟った信長が、本能寺に火を放ち、自害してしまったのだ。
その結果、信忠と光秀は決裂。
光秀は信忠をも討つことになった。
想定外の事態なのだから、光秀らしからぬその後の行動も理解できる。
正直、ノイローゼ説よりかなり納得できた。

 ちなみに秀吉はこのクーデターには加わっていなかった。
信長に大きな恩義を感じている秀吉が加わる可能性は低かったからだ。
だから事後承諾させるということで、黒田官兵衛に話を通していた。
秀吉が清須会議で優位に立てたのも、この点による。
信長父子が死んだ元を作った責任追及という訳だ。

 信長の宗教に対する考え方には今イチ納得できない部分もあった。
だが概ね納得できる解釈ではあった。
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室町時代の地頭 [歴史]

 「どうでしょうClassic」を見ていて、ふと思った。
この回は「試験に出るどうでしょう 日本史」。
学習した内容を元にミスターと安田顕がテストを受ける。
いずれか一方でも10問正解できなかったら四国八十八箇所を巡礼するというものだった。
安田顕は四問目、ミスターは九問目で間違え、全員の四国行きが決定した。

 ミスターが間違えた問題はこれ。

1338年、足利尊氏が光明天皇より征夷大将軍に任ぜられ、室町幕府を開いた際に守護・地頭を置いた。
その結果、守護が各地で力を持つようになり、やがて守護大名と呼ばれる強大な勢力になった。

これに対して「〇」としたが、正解は「×」。
足利尊氏が設置したのは守護であり、守護・地頭を設置したのは源賴朝ということだった。

 鎌倉幕府は武士に土地の所有権を保証するという形で成立した。
この土地の保証が「地頭に任命する」ということだ。
一方「守護」は諸国の軍事・警察を担当した。
管轄するエリアで言えば守護の方が広域だ。
だが守護と地頭は職掌が違うので、両者の間に上下関係はない。
守護が県警本部長で地頭が市長といったところか。

 それが室町幕府では、守護に一国の政治的権限を与えた。
その結果地頭は守護の被官となり、「国人」となっていった。
これによって地頭は自然消滅する形となった。

 だがこれは中期以降の話であり、尊氏が幕府を開いた時点では地頭は存在した。
中学校の教科書にも載っている室町幕府職制表にも、地頭は明記してある。

 もっとも、このテストの出題範囲はあくまでも「試験に出るどうでしょう」だ。
だから出題内容もこの中からということになる。
たとえ史実に反していても、この内容がすべてということになるのだろう。

 ちなみに「試験に出る石川・富山」では富樫政親を「加賀守」と言っていた。
これは「加賀守護」の間違いと思われる。
富樫氏の官位は加賀介であって加賀守ではないし、出題に使うなら加賀守護だろう。
(鈴井貴之は「かがもり」と読んでいたが…。)
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「ぐるっとまわろう沼津城」に参加 [歴史]

 高尾山古墳のイベントで知り合ったハカセさん主宰の「ぷらタコり」。
その「ぐるっとまわろう沼津城」に参加してきた。

 沼津城については、中1の時に自由研究で調べたことがある。
だが当時は歴史の知識も乏しく、大したものではなかった。

 今回は歴史というより城域をまわるという感じだった。
それでも中1の時の断片的な記憶が甦ったりして、楽しかった。
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 明治維新の時期に藩ではなかったこともあり、城を残す動きはなかった。
しかも大正年間の二度の大火災の後に大規模な復興がなされた。
これにより、城の遺構はほぼ完全に失われたようだ。

 もし今も残っていたら、どんな町づくりになっていただろう。
それだけに、高尾山古墳は何としても有効活用してほしいものだ。

仏教 [歴史]

 今日は近所の葬式の手伝いに駆り出された。
葬式で感じるのは、江戸幕府の宗教政策の見事さだ。

 日本の仏教は非常にパワフルだった。
もっとも、日本の仏教に限った訳ではないのだが…。

 信者を獲得するための様々な工夫。
その自信からくる他宗派への攻撃。
他宗派のみならず、政治権力ともしばしば衝突した。

 宗教的権威に対し、政治権力は手出しができなかった。
初めてそれを実行したのが織田信長だった
信長は宗教勢力の武力を徹底的に排除した。

 勘違いされがちだが、信長は宗教弾圧はしていない。
比叡山延暦寺の焼き討ちや一向一揆の弾圧は有名だ。
だが、天台宗や一向宗を禁止してはいない。
日蓮宗に対しても、安土宗論で排他的な部分は禁止した。
だが、日蓮宗の布教を禁止してはいない。

 そして秀吉の刀狩。
宗教勢力の武力を奪った。

 仕上げの江戸幕府は、寺院を役所化した。
寺院にとって信者は、獲得するものではなくなった。
努力しなくても、最初から割り当てられているのである。
仕上げが鞭ではなく、飴なのが見事だ。

噂の東京マガジン [歴史]

 先週の火曜日に高尾山古墳で何かがあるとの連絡を受けた。
休みの日だったので、行ってみた。
TBSのロケで、笑福亭笑瓶が来ていて驚いた。

 そして今日がその放映日だった。
13:00放送の「噂の東京マガジン」。
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 13:02に友人からLINEが入った。
「テレビ出てるじゃん」
時間的に早すぎないか?
外出先だったので、帰宅してから確認。
たった一言なのに、OPで使われ、本編でも流れていた。
別の友人からもFacebookのMessengerに確認があった。

 内容は、保存派と道路派の意見を公平に採り上げたものだった。
確かに、道路派の意見もわかるのだが…。
代償があまりに大きすぎるだろう。
それにこの道路ができて、本当に渋滞は解消されるのだろうか。
国道一号線の渋滞が解消されない限り、結局抜け道になるのでは…。
何とか八方丸くおさめる方法はないものか。

「高尾山古墳を知ろう!」に行ってきた! [歴史]

 昨日開催された「高尾山古墳を知ろう!」に行ってきた。
HPを見た限りでは、申込者は17/200名となっていた。
実際は220名以上が参加したようだ。
電話等での申込みは反映していなかったのか。
早めに行ったので、駐車場は問題なかった。
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 静岡大学の篠原和大教授が
1・高尾山古墳はどんな古墳か
2・高尾山古墳が造られたのはどのような時代か
3・高尾山古墳にはどのような価値があるのか―なぜ保存なのか
について講演した。

 話の中で、登呂遺跡は数年前の再調査で新たな発見があったそうだ。
技術も発達するだろうから、当然あり得るだろう。
壊してしまったら、そんな機会は永遠に失われてしまう。

 質疑応答で一人の老人が話した。
小さい頃から高尾山の祭に行っていた。
その高尾山にこんな古墳があったなんて、感動だ。
それが壊されたら、本当に情けない。
まさに同感だ。

 署名活動が始まった。
職場や友人、町内に呼びかけて集めている。
これをご覧の方も、よろしければ是非ご協力ください。
署名用紙はこちらからダウンロードをお願いします。
  ↓ ↓ ↓ ↓ ↓
https://takaosankofun.wordpress.com/syomei/

「本能寺の変 431年目の真実」 [歴史]

 明智光秀の子孫である明智憲三郎氏の「本能寺の変 431年目の真実」。
ようやく読破することができた。
前に買ってはいたのだが、読まないままになっていた。
電子書籍化されていたのを見つけたので、ようやく読み始めた。
読み始めたら一気に読んでしまった。

-ここから先はネタバレなので、自分で読みたい人は注意して下さい。-

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 動機は信長の新政権構想とその先にある大陸進出に対する一族の将来への不安。
引き金になったのは長宗我部征伐。

 本能寺の変自体は、信長がプロデュースした家康謀殺計画だった。
信長は家康とその重臣を本能寺に招き、光秀に襲わせる。
それを受けて細川忠興と筒井順慶が指揮官を失った徳川領に侵攻する。
武田家の滅亡で織徳同盟の意義はなくなったのだ。

 だが光秀はこの家康謀殺計画を信長謀殺計画にすり替えた。
信長自身が謀殺計画の段取りをしてくれたのだ。
光秀にとっては信長を討つ千載一遇の好機である。
光秀は家康・細川藤孝と共謀し、計画を実行した。

 信長は家康を油断させるために敢えて無防備で本能寺にいる。
光秀は当初の計画よりも数時間早く本能寺を襲撃すればいい。
家康は信忠を殺してから急遽帰国し、甲斐・信濃の織田領を制圧し、光秀と合流する。

 この作戦にも大きな計算違いが生じた。
一つは家康の甲斐・信濃簒奪に時間がかかり、光秀との合流が遅れたこと。
もう一つは明智の下風に立つことを嫌った藤孝が秀吉に計画を漏らしたことだ。
そのため、秀吉は光秀の予想より遥かに早く帰京した。

 結局光秀は滅び、秀吉・家康・藤孝の共謀で真実は隠蔽された。
家康が討つはずだった信忠が京都にいて、光秀に討たれたことも幸いした。
家康が信忠を殺していたら、隠蔽は不可能だっただろう

 かなり大雑把に書いたので、疑問点も多々あると思う。
実際に読んでもらえれば、納得してもらえると思う。

 自分としての疑問点は一つ。
計画を知った秀吉はどこまで考えたのだろうか。
秀吉が信長の後継者になれたのは、信長・信忠が死んだからだけではない。
三法師が生き延びたことが必要不可欠のはずだ。
筋目を主張して三法師を立て、信雄を利用して信孝を抹殺できた。
この計画だけで、そこまで見通すことは不可能ではないか。
とりあえず織田家での優位な立場を確保するだけというのなら問題はないのだが。

織田信長の誕生日 [歴史]

 5月12日は織田信長の誕生日と言われている。
天正10年5月12日には盛大な生誕祭を開催したそうだ。

 信長は日付にこだわっていたそうだ。
安土城に入城したのも自分の誕生日に合わせている。
比叡山延暦寺を焼き討ちしたのも、石山本願寺に攻撃を仕掛けられた9月12日だ。
だが、こういう事実はあまり知られていない。

 一番大きな理由は、日付の表記の仕方にあると思う。
これらの日付は、すべて旧暦のものなのである。
西暦を導入した1873年より前は、すべて西暦に換算してあるのだ。
「今日は何の日」というアプリやサイトがある。
その日付にどんな事件があったり、誰の誕生日や忌日だったりがわかる。
これらもすべて西暦の日付になっているのだ。

 換算してあった方がピンと来る場合もある。
例えば、長篠合戦は天正3年5月21日。
西暦では1575年6月29日になる。
鉄砲を活用するために梅雨明けを待ったというのは、西暦の方がピンと来る。
だがこれは、注釈に西暦の日付を載せれば済むことだ。
むしろデメリットの方が多い。

 坂本龍馬の誕生日は1836年1月3日、忌日は1867年12月10日になっている。
これでは龍馬が自分の誕生日に暗殺されたというのがわからない。

 もっと極端は例は武田信玄だ。
信玄は元亀3年12月22日の三方原の戦いで徳川家康を破った。
だがその後発病し、翌元亀4年4月12日に信州駒場で没した。

 これを西暦で表すとどうなるか。
1573年1月25日に三方原の戦い、同年5月13日死去なのだ。
本来年明けを挟んでいるのに、同年の出来事になってしまうのだ。
感覚が狂ってしまうと感じるのは私だけではあるまい。

 歴史上、日付にこだわるということはよくある。
微妙な年代の違いには注釈が必要ではある。
だが基本は旧暦の日付もそのままで行ってほしい。

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