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「天正10年の史料だけが証す本能寺の変の真実」 [歴史]

 最近読んで、ようやく納得できる説に巡り会えたと感じた本。
本能寺の変に関する本はいろいろ出ている。
だがどの本も「信忠問題」を納得させてくれなかった。

 信長の長男・信忠は本能寺の近くにある妙覚寺にいた。
信長救出が無理と悟った信忠は、二条御所で明智軍を迎え撃った。
だが多勢に無勢で討ち死にした。

 このことは、信忠は光秀からノーマークだったことを示している。
織田家の天下を奪うなら、信忠は当然殺すべき人物だ。
それがノーマークということは、天下盗りが狙いとは考えられない。
そうなると、ノイローゼによる発作的な犯行ということになってしまう。

 「本能寺の変 431年目の真実」では信忠問題に触れられていた。
信忠が家康を本能寺に案内し、光秀に討たせる計画だったという。
だが家康と光秀が共謀し、計画より前に光秀が信長を襲った。
だから信忠が京都にいることは光秀にとっては想定外だった。

 しかし、それならなぜ信忠は京都にいたのか。
同行の予定を変更したのなら、当然家康には伝えるべきだ。
事前に家康に連絡していたら、光秀の耳にも入っているはず。
結局信忠問題は解決していなかった。

 今回読んだ本の趣旨は「織田家臣団による信忠を担いだクーデター」。
全てを信忠に譲り、信長は隠居するという交渉が第一弾。
それがダメなら、信長を捕らえて監禁。

 だがここで想定外の事件が起こった。
不利を悟った信長が、本能寺に火を放ち、自害してしまったのだ。
その結果、信忠と光秀は決裂。
光秀は信忠をも討つことになった。
想定外の事態なのだから、光秀らしからぬその後の行動も理解できる。
正直、ノイローゼ説よりかなり納得できた。

 ちなみに秀吉はこのクーデターには加わっていなかった。
信長に大きな恩義を感じている秀吉が加わる可能性は低かったからだ。
だから事後承諾させるということで、黒田官兵衛に話を通していた。
秀吉が清須会議で優位に立てたのも、この点による。
信長父子が死んだ元を作った責任追及という訳だ。

 信長の宗教に対する考え方には今イチ納得できない部分もあった。
だが概ね納得できる解釈ではあった。
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