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高天神城に行って来た! [歴史]

 4月30日、前々から行きたかった高天神城にやっと行くことができた。
行く途中に雨がパラついたが、着いてからは全く問題ナシ。
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 武田家滅亡の引き金となった高天神城。
徳川家康に攻められ、武田勝頼に援軍を要請した。
だが、武田家は御館の乱の関係で北条家を敵に回してしまった。
そのため、勝頼は北条氏政を警戒し、援軍を出せなかった。
結果、高天神城は落城した。

 この落城の影響は大きかった。
武田家についていても、守ってもらえない。
武田家への信頼は地に落ちた。
翌年、諸将の離反もあって武田家は滅亡した。
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 30日は平日だったので、遠足の地元小学生が大勢いた。
「こんにちは」の応酬がいつもの仕事のようだった。
搦手門から行くと、階段は結構キツかった。
追手門から入って搦手門に出ると楽なのかな。
山頂からの景色はなかなか楽しめた。
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中国大返し [歴史]

 先週の「軍師官兵衛」ではまさかの展開。
官兵衛が安国寺恵瓊に信長の死を打ち明けた!
一体どうなるのかと思った。
しかし、よくよく考えると大した影響はないのでは。

 従来では、秀吉側は信長の死を隠して講和交渉を行った。
領地の割譲は譲歩するが、清水宗治の切腹を断固主張。
毛利側では宗治の切腹は断固拒否する。
安国寺恵瓊は単独で宗治と交渉し、切腹を承諾させる。
これにて講和成立→中国大返しへ。

 要するに、一般的には恵瓊の行動は「欺されて」のものだった。
それが「秀吉側(官兵衛)と共謀して」に変わるだけなのだろう。
毛利側には「自分も欺された」と言うのかもしれない。
結局のところ、大勢に影響はないということか。
でも、欺して交渉した方が官兵衛のスゴさが伝わると思うのだが…。

本能寺の変 [歴史]

 今度の「軍師官兵衛」はいよいよ「本能寺の変」。
週刊誌に載っていた「本能寺の変」の真相。
根本にあるのは信長の「唐入り」に対する不安感。
天下が統一されれば、もう戦いは終わりだと思っていた。
それがまだ続くのかという絶望感が蔓延していたという。

 だが、本当にそうか?
戦国武将の感覚を履き違えていないか?
これは秀吉の唐入りにも言えることだが、武将にとって「戦争が終わる」ということは、出世の道が閉ざされるということだ。
信長軍は兵農分離しているから、終戦=失業を意味する。
だから戦いが終わることへの不安はあっても、続くことへの不安はあり得ない。
秀吉の唐入りは失敗したので、武将はみんな反対だったように言っているが、実際には大乗り気だった可能性が高い。

 そして黒幕は秀吉という話に。
確かに、一番得をしたのは信長の後継者となって天下を統一した秀吉だ。
当然一番怪しい。
中国大返しができたのも、事前の情報があればこそというのも納得できる。

 しかし、秀吉が信長の後継者になれたのは、信長だけでなく、信忠も死に、尚且つ信忠の子・三法師は生き残るというかなり奇跡的な状況があったからではなかったか。
しかも、妙覚寺にいた信忠は本能寺に向かったが、諦めて二条御所に立て籠もって死んだ。
つまり、死んだのは信忠の判断ミスで、その気になれば脱出することができたのだ。
だから、何者かが信長に取って代わろうとしたという考え方はあてはまらないと思う。

 ま、そう簡単に答えは出ないから、未だに謎なのだが。
イタコにでも聞ければいいのだけど。

平成25年 [歴史]

Kinkaku.jpg 新しい年が明けた。
西暦2013年、平成25年だ。
25年まで続いた年号は平安時代の「延暦」と南北朝時代の「正平」があるが、延暦は23年と273日、正平は23年と229日。
1月1日の時点で平成は23年と359日だから、すでに両方抜いて、歴代第4位の長さになった。
ここ数年では天文の24年、延喜の23年と1年刻みだったが、第3位の応永は35年続き、期間としては33年と341日。
抜くのにあと10年かかる。

 ちなみに応永年間には、足利義満が大内義弘を滅ぼした応永の乱、義満による金閣造営と勘合貿易の開始、朝鮮国が倭寇の報復として対馬を侵略した応永の外寇と、歴史の教科書に出てくる重要事項が目白押しだ。
平成25年には何が起こるのだろうか。

歴史は繰り返す [歴史]

 東北地方の惨状そっちのけで、政治家は党利党略に明け暮れる。
昭和初期の日本の情勢の話だ。
1930(昭和5)年から1934(昭和9)年にかけて東北地方を中心に度々発生した飢饉、いわゆる昭和東北大飢饉によって、東北地方では身売りや欠食児童が続出していた。
にもかかわらず、政治家は党利党略に明け暮れ、何一つ具体的な対応策をとらない。
窮乏をみかねた東北地方出身の軍人達によって満州事変が引き起こされた。

 東北大震災の被災者に対する対応が十分とはいえないこの状況下での内閣不信任案提出。
昭和初期の情勢に非常に良く似ている気がする。
歴史は繰り返すというが、過去に起こった過ちをデータベースとして、これからの未来に役立てるのが歴史の意義のはずなのだが、同じ過ちを繰り返すなど愚の骨頂だ。
しかも、またしても被害に遭っているのは東北地方の方々だ。
90歳くらいの方であれば、二度とも体験されている方もおられるだろう。

 昭和では戦争が起きることで景気が回復していった。
戦争というと「悪」のイメージが強いが、戦争によって需要が高まり、景気が回復するのも事実だ。
平成の救世主になるのは何だろうか。

 0時を過ぎ、日付は6月2日になった。
夜明けを狙って明智光秀が織田信長を襲撃したのが本能寺の変だ。
歴史が大きく動いた日になった。

いよいよ本能寺の変 [歴史]

 「江」の本能寺の変を見た。
テニスの練習日だったので、帰宅後に観るつもりだった。
だが、雨が降ってきたので練習に行くのをやめ、追っかけ再生で観た。

 先週の武田征伐での折檻や今週の出雲・石見への国替えなど、信長が光秀につらくあたっている描写があったので、正直がっかりしていた。
だが、蘭丸役のキバの問いかけに対し、光秀を評価する故であると答えていたので、安心した。
全体としては満足できた本能寺の変だった。

本能寺の変 [歴史]

 2月6日の「江」は本能寺の変だ。
自分の誕生日に本能寺の変というのも何か因縁のようなものを感じる。
「江」の信長は、主人公の江が信長に好意を持っているという設定ということもあってか、なかなか納得できる扱いになっている。
戦いのない世をつくるには戦いが必要だということ、寺社が武力で刃向かってくるから武力で倒すしかないということ、天下布武とは武力による支配ではなく、武士による一元支配ということなど、「我が意を得たり」という描き方をしている。

 不満なのは二点。
まずは天皇に対して。
武家・公家・寺社の要に武家が、と言っていい、信長自身が神になるとまで言っているのに、それが天皇の権威を超えようとするものだとまでは言及していないということだ。
あくまでも信長は天皇を主とする立場に描いている。

 そして何よりも不満なのは、本能寺の変の原因を信長の光秀いじめのように描いているということだ。
この描き方だけは旧来の大河ドラマと変わっていない。
やはり個人的な意見としては、信長が光秀を追い詰めるのではなく、光秀の方が重圧に負けるとという描き方の方がいい。

改元 [歴史]

 31日は久しぶりにテニスの練習に行ったのだが、雨のために中止になってしまった。
クラブのメンバーとおしゃべりタイムになった。
その中の一人が、1989年1月6日生まれだった。
昭和天皇崩御の日、つまり昭和最後の日だ。
その日に生まれた彼は昭和64年生まれ。
翌日に生まれた人は平成元年生まれになる。
理屈ではわかっていたが、実際にそういう人に会うとは思わなかった。
なかなか感動してしまった。

 改元といえば、先日「桜田門外ノ変」を観た時に気がついたことがあった。
桜田門外の変が起こった1860年は「万延元年」。
様々なドラマでもそのように表されていて、今まで何の疑問も感じていなかった。
しかし、「桜田門外ノ変」を観て初めて気づき、確認してみた。
そう、桜田門外の変などの変事が起こったために「万延」と改元していたのだ。
だから変の時点では「安政7年」だったのだ。
今になってこんなことに気づくとは。

甲州に行ってきた! [歴史]

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 秋休み初日、甲州に行ってきた。
最大の目的地は恵林寺。
天正10(1582)年の武田氏滅亡時、織田氏によって焼き討ちにされた寺だ。
原因は、恵林寺が寺内に逃げ込んだ六角義弼の引渡しを拒否したことにある。
仏教勢力が政治に介入することを嫌った信長によるものだ。
快川紹喜の「心頭を滅却すれば火も自ら涼し」とはこの時の言葉だ。
この言葉、快川紹喜のオリジナルだと思っていたが、禅書の一節だそうだ。

 宝物館に「孫子の旗」、所謂「風林火山の旗」の実物があった。
ドラマで見られるような整った字体とは違い、非常に重みのある旗だった。
学芸員がいろいろ話をしてくれた。
自分も答えると、気をよくしたのか、さらにいろいろ話してくれた。
歴史好きとしては、話に答えてもらえると嬉しいものだ。

 境内に土蔵のような建物があり、中をのぞくと僧らしき人物の像があった。
説明は何も書いていなかったので、何なのかわからなかった。
寺の人に聞こうと思っていたのだが、結局聞き忘れてしまった。
一体あの像は何だったのか。
遠いところではないし、ぶどうやワインもあるので、また行くこともあるだろう。

秀吉の妻 [歴史]

 豊臣秀吉の正室・北政所。
本名は「ねね」と言われていた。
ドラマでもずっと「ねね」だった。
いつの頃からか、「おね」に変わった。
私の知る初見は1996年度NHK大河ドラマ「秀吉」で沢口靖子が演じた時である。
本人の署名で「ね」一文字のものはあるが、「ねね」と書かれたものはないというのがその根拠だそうだ。
それ以降は「ね」に接頭語の「お」をつけた「おね」が一般化した。
2007年度大河ドラマ「功名が辻」では、当初「おね」の予定だったが、原作を尊重して「ねね」にしたそうだ。

 だがこの論拠、反論も出ている。
「ね」の署名であるが、当時の女性が署名に際して一文字のみ使用することがあったそうだ。
例えば、細川ガラシアの本名は「たま」。
「た」という署名の文書があるらしい。
また、2011年度大河ドラマの主人公お江(ごう)にも、「五」という署名の文書があるらしい。
さらに、当時の女性の名前に一文字のものは確認できないそうだ。
ちなみに「ねね」という名の女性は何人かいるらしい。
となれば、やはり「ねね」でいいのではないか。
一度変更したものをもう一度元に戻すというのは、なかなか難しいものなのだろうか。

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